沼田の山車(まんどう)

全国の祇園祭の例にみられるように、京都の八坂神社祇園祭に発している。牛頭(ごず)天皇を祀る須賀神社の祭典が沼田祇園祭(おぎょん)の源流で、昔は本町と称する上之町、中町、下之町の3か町の氏子が中心となり、祭りを実施した。天保の時代(約150年前)からは、時の城主・土岐氏の命により榛名神社もこれに加わり、全町の祭典として、神輿(みこし)、「まんどう」と呼ばれる山車(だし)の城内渡御が行われるようになったが、明治以降は城内を渡御することなく、各町を回るだけとなった。戦前は、須賀神社(天王様)・榛名神社(榛名様)の神輿が並んで練り歩き、最終の5日には、各氏子の「まんどう」が勢揃いして、須賀神社の境内で神輿の帰りを待ち6日朝までお囃子が続いた。

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明治29年 上之町の山車 人形は狐忠信

沼田の歴史の中で「山車」という言葉が出てくる現存する資料は『上之町祭典録』で、これは明治18年から記載されたもので、明治18年に山車の名前がある。明治29年の祭礼は8月7、8、9日に行われた。上之町祭典録には祭典費が百十六円と記載されている。尚、明治30年に、赤痢が大流行の為各町内が山車を出すことを中止した。
明治41年 上之町の山車 人形は獅子舞

祭も転機が訪れました。電話、電燈線が引かれ山車の高さが制限されました。この年は須賀神社の氏子町と榛名神社の氏子町を合せて8本の山車が出来ました。上之町祭典録には『沼田町の姿も都会らしくなった。誠に文化はありがたいが山車にとっても最も不都合な奴に舞込まれて困難、困難、大困難に立至った』と記されている。なを、この年から上勾欄を上下させるせり上げ式となる
大正7年 上之町の山車 人形は瓶割り柴田

電線が張りめぐらされ、各町で電線対策が考えられたものの、しばらくは、電線による事故が相続いだ。上之町は大正初期にいたり始めて従来の1本柱山車から4本柱山車に切り換えられる。昔の山車の風格は失ったが機能性には断然優れている4本柱形式はたちまち全町にとり入れられることになった。
大正8年 山車の巡行 この年10本の山車が出た

この年より警察へ道路使用許可願を提出し許可終えて各町円満の内に行うことを誓った。上之町天狗プラザ付近

大正初期 中町の山車
人形は茨木、須賀神社境内
大正初期 下之町の山車
御馬出通りを本町に向かう、うしろは下之町神明宮、伊勢の森
大正4年 中町の山車
人形は猿かに合戦、須賀神社境内
大正11年 原新町の山車。
後にどんどん焼きの火が飛び火し焼失した
大正末期 西倉内町の山車。
下之町旧大正堂前、現在のグリーンベル21前付近
昭和3年 上之町山車。
11月に行われた昭和天皇ご即位記念に山車を出す。
昭和9年 下之町の山車。山車を引く人手不足のためこの当時、牛や馬を使用した事もあった。
昭和30年頃 材木町の山車
人形は加藤清正 場所は倉内通り西倉内交差点付近
昭和30年代 東倉内町の山車
東倉内交差点、回生堂横付近

昭和20年後半 清水町山車。
清水町駅前にて後ろに見えるのは沼田駅です。
昭和25年頃 清水町の山車。
渋川のお風呂屋より清水町が、榛名町分割時にどうしてもといって譲ってもらった。現在は鍛冶町の山車として活躍(駅前高橋鉄工所様より提供)
馬喰町の山車。
現在は、山車がなく、町神輿でおぎょんに参加しています。現在の貯蓄銀行前付近
昭和30年代 鍛冶町の山車
昭和30年代 鍛冶町の山車
上之町の山車。
場所は現在荒木屋前四つ角付近

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沼田祇園囃子保存会祭吉連 HP事務局 担当春吉

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